2024/09/25 貴景勝 引退
28歳。最近の土俵上での姿を見ていて、早すぎるとは思わなかった。優勝した2020年の11月場所、すばらしくよかったのを覚えている。優勝インタビューもよかった。このことは当時の日記にも書いてある。ここ最近はもう満身創痍で相撲を取っているように見えた。引退会見でこれまでの土俵人生に悔いはないかと問われ、全くないときっぱり答えていた。とても立派だった。本当ににそうなのだろうと思う。いつでも自身の相撲を取りきっていたのは見ていて美しかった。だから、悔やむことは何もないのだろう。
だけど。だけど、これからのことについては悔いはないのだろうか。目指してきたもの(横綱)がもう二度と手に入らないことについて。「手をいっぱいに伸ばしたんですけど、届きませんでした」と言った。現実として届かないことをわかって、決めて、引退に結びついたのだと思う。だけど、気持ちはそんなにすぐになくせるかしらと思ってしまう。どうがんばっても手に入らないとしても気持ちだけはまだ持っているのではないかと想像してしまう。
全くの見当違いかもしれない。それでも、わたし自身のこととも照らし合わせて勝手なことを考えている。というのも同い年なので。同じだけの年月を生きてきて、この人は手放すことをどんなふうに思っているのだろうと考える。横綱にはもうなれないことをどう思うのか。目指してきた気持ちはどう変わったのか(あるいは変わらずにあるのか)。聞いてみたい。
件の2020年11月の日記を読み返したら、同じ月の別の日に「好きだったと思うとき、もうそこに戻れないことよりも、もう同じように思えない方が苦しい」と書いていた。届かないと自覚しても諦めなくていいと今のわたしは思うよ、と当時のわたしに言ってやりたい。ひとつ前の日記の話とも繋がる。こんなふうにすべてがいつか繋がっていくのはふしぎ。
ただ、二度と手に入らないものに対して気持ちを持っていることが本当に可能なのか。後悔しちゃわないか。その思いがありながら他のものとどれだけ向き合えるのか。気持ちをなくすことが嫌だという気持ちは強く持ちながらも、まだまだわからずにいる。
2024/09/19 失恋とは
誰かの言葉や行動によってするものではなく、誰かと自分の間で起こることでもなく、ただ自覚することでそうなるなるのだ。と思った。自分の立場を知ること。感じ取ること。あるいは、決意かもしれない。もしそれが誰かの言動によって思い至ったものだとしても、自分の問題でしかない。だから、こっそりずっと恋してることだってできる。でもしない。と思う。ありきたりにしか幸せにしかなれないんじゃないかと、最近はもやもやと思う。それが嫌なのか。たぶん嫌なんだろうな。決めたふりして涙が出る日もある。←ごちゃごちゃ言っていないで早く心を決めればいいのに!
2024/09/18 くだらない話
近くに住んでいた親友が去年大阪に引っ越したので、16(日)~17(月祝)に遊びに行ってきた。とうとうここにはだれもいなくなってしまった。近くにいたころは頻繁に会うわけでもなかったのに、遠くに行ったほうが多く会っていたりする。
仕事が終わってから昼頃出て、夕方、親友と前日から先に来ていたもうひとりの親友と落ち合った。ご飯を食べつつ、くだらない話がほとんどと大事な話をちょっとだけして、歩いて帰る。順番にお風呂に入って、くだらない話をして、そのうち寝た。
モーニングで釣られて早起きして、先に来ていた親友を見送る。2人で梅田駅周りの公園巡り。どこもちょっとずついいところがあったが、いい公園リストに追加するほどの公園はなかった。中津商店街の裏のお店でコーヒーを飲んだ。まだ9時。中津商店街を通ったら小4くらいの男子がひとりで自転車でやってきて「今日、駄菓子屋やすみ?」と空中に言う。「ここ駄菓子屋なの?」とわたしも空中に言った。後でグーグルマップを見たら11:00営業開始となっていた。まだ10時前。ようやく目的の絵本カフェにたどり着いた。図書館みたいでよかった。
池田駅に移動して、ささやき書店さんへ。とてもよかった。どのくらいよかったかというと、すでに持っている本がたくさんあるくらい。2冊買う。近くでお昼を食べた。
大阪はちゃんと来たことがたぶんないので珍しく観光ぽいことするかと思って、太陽の塔を見に行った。暑すぎた。木と芝生がたくさんあってよかった。でも暑すぎた。太陽の塔は一応写真だけ撮っておいた。新大阪駅まで戻って、頼まれていたおみやげをさくっと買って、あとはカフェでだらだらくだらない話をしていた。電車の時間になったので帰る。
久々にしっかり乗り物酔いをした。しなの、きつすぎる…。車内でちょっとだけ嫌だなと思うことも起こって、それもあったと思う。次の日まで死んでいた。子どもの頃に飲んで具合が悪くなって以来飲んだことのない酔い止め薬、今度飲んでみようかな。この秋あと3回はしなのに乗らねばならない(9/9の日記参照)ので、がんばりたい。
2024/09/10 ちょっとだけ特別にする
5日に書いた日記の続き。中学生だったか高校生だったか、家族でクリスマスコンサートと銘打って演奏し合ったことがあった。わたしが言い出したのだったと思う。コンサートというほど大したものではなかったけれど、雰囲気と気分は大事。わたしと弟がピアノ曲を弾いた。兄たちは合唱曲、わたしがピアノ(そのうち兄たち以外も歌ってた)。父がイタリア歌曲だったかを歌って母がピアノ。
いつもの練習をちょっとだけ特別にしたかっただけなのだと思う。そして、その試みは成功だった。本当の本番じゃなくて練習に近い本番。練習に近いけど一応本番。クッキーを焼いてみたから味見してねって持ち寄る感じ。どこかで売ろうとか誰かに渡そうとかいう気持ちはないクッキー。みんながちょっとずつ何か持ってきて、おいしいねと言って、心の中ではもうちょっとバター足そうかなとか思っているの。別のある人はおいしそうだからと買ったチョコレートを持ってくるかもしれない。いつも喋り合っている時間がちょっとだけ特別になるでしょう?
2024/09/09 それまでは生きる予定
今週末、大阪に行く。10月おわりから熊本に行く。神戸にも立ち寄ろう。そのあと東京にも少し。11月はそのほかに東京へ2回。12月は東京へ1回以上(未定)。年越しは知らない街でできたらいいな。2月に東京で本番が2回。1回はホルン、もう1回はピアノ。3月(誕生月)は教室の発表会前でやすみなし。4月の発表会後、どこかへ。どこかへ… どこかへ!
追記:東京の本番のうち1回は神奈川県だった。(東京とは)
追追記:熊本のあと、神戸ではなく広島かどこかその辺りにする。そのかわり、まだ仕事調整中だけど、10月にもう1回神戸に行くつもり。岡田淳さんの作品展を見に!!!!!!!!!!!!!
2024/09/08 深夜のアイス
ちゃんとしてなきゃ。がんばらなくちゃ。と思ってしまうのである。何を必死にやりきろうとしているのか。ただ狂っていって結局なにもできなかった時、つらすぎて死ぬんじゃないかという気がする。もういつ死んでもいいのだけれど、約束の2月までは死ねない。生きるための深夜のアイス。深夜のアイスで罪悪感に慣れる。ちょっと悪いことを抱えて生きていく練習。本当はそれすら嫌で、タイミングが悪ければ深夜のアイスだけでじゅうぶん死ねる。今日は大丈夫でした。
アイスが終われば夏も終わる。夏にばかり人が来る。避暑地とか言って。冬は誰も来てくれない。わたしはここで暮らしてるのに、みんなはそうじゃないんだな。蕎麦を食べて、山や湖を眺めて、帰って行ってしまう。わたしは普段そんなに蕎麦を食べないのに。山や湖もただそこにあるだけで眺めたりしないのに。わたしがどこかへ行くときは、暮らしている人のような旅をしたい。いや、違うか。みんなが帰って行くように、わたしもここを離れて行ってしまいたいだけかもしれない。
なにに対してなのかなぜなのか分からないけれど、怒っている。自分のこと、ポカスカなぐってやりたい。そうしたら痛いから泣いていい。泣く理由を見つけるまでは泣いてはいけない。
2024/09/05 ピアノの話
ブラームスop.118-2はもう人前では弾かないと思っていたけれど、今秋に弾こうかと思っている。6だけ人前で弾いたことがない。とても孤独で悲しい曲。人前で痛みをさらけ出せる自信がまだない。いつか弾くのかな。
op.39のワルツもそのうちどこかで弾きたい。3(めちゃ好き)と4(めちゃカッコイイ)のセット。または14(gis moll)と15(As dur)のセットもいい。14と15はアタッカで弾きたい。Gis(Gシャープ)とAs(Aフラット)は異名同音なので、実質、同主調の短調→長調となる。あまりにも有名な15(愛のワルツ)がよりあたたかく聴こえる気がする。さらに16まで続けて弾けば、15の終わりの音(ソプラノ)がAsで16の始まりの音がGis、フラット系からシャープ系にするりと変わるのは見事だと思う。(早口)
シューマンをさらっていて、なんで今まで弾けなかったんだろうと不思議に思うくらい好きになっている。テクニック的な問題ではなく、これでいいんだって思えたことがなかった。今は弾いていて心がざわざわする。あと、メンデルスゾーンはどう考えてもわたしが好きそう。実際にとても好き。季節外れに無言歌集の「春の歌」など弾いています。「なぐさめ」も大好き。歌すぎる。(語彙力…)
人前でピアノソロを弾く機会は、教室の発表会(講師演奏)と大学同窓会の演奏会くらいしかない。もっと気軽にクラシックを聴いてもらえる機会があったらいいなと思う。弾くほうも聴くほうも、何かを求めたり与えたりする必要のないステージ。おうちで弾くから聴きに来てって言ってやるくらいの。無理か……。ステージは気軽でも、演奏は気軽にはいかないものな。こだわって練習したものを気軽に聴いてほしい。でも、そのうち。呼んだら来てほしい。どこからでも。練習できたら呼ぶから、そのときはおねがいします。
2024/09/04 散歩がじょうずな友達
散歩がじょうずな友達(打楽器奏者 等)から、おととい久々の連絡あり、「明日と明後日、近くでライブをする」とのことだった。急すぎ。仕事の時間とも重なっていて行かれなかった。残念。そういえば、高校の部活で一緒に演奏していたとき以来、彼の演奏を生で聴いたことがない。あとでインスタで見たら、独特すぎてすごく楽しそうだった。あぁ、だから散歩がじょうずなんだ、とも思った。
散歩がじょうず、とは? 彼と散歩したあとはいつも「いい散歩だったな」と思う(どちらかがもう一方の近くに来たときに散歩することが多い)。迷いがないのではない。道を選ぶとき、立ち止まるとき、また歩き出すとき。そこに在るものを見つけたとき、そこにないものの話をするとき。すべてちゃんと迷いながらも探そうとしない。自然なのだ。つられて、わたしも本音を話してしまう。
いつだったか、少し先にわたしがやっていることはピアノ教室じゃなくてもいいと思うんだよねって話をしたら、いいじゃない!と言ってくれた。わたしたちふたりとも、大物になろうなんて思ってないのだと思う。種を蒔いて、いつか芽が出るのをワクワクしながら待っている。彼のする音楽の正体は、彼の歩き方は、このワクワクなんじゃないかと思う。
←[日記]